セラピストブログ

2026.09.15 他人の理不尽に怒りが止まらない理由|正義感や自己犠牲ではなく「自分を守るため」だった

私は昔から、筋が通らないことに腹が立つ。

それは自分のことだけではない。

友人や同僚が理不尽な扱いを受けていると、頼まれてもいないのに口が動き、行動して助けに行く。

なぜ、私はそこまで怒りが湧くのだろう。

私の怒りは、正義なのか。

それとも、自己犠牲なのか。

「しっかりしていない人(被害者)」にも、

「卑怯なことをする人(加害者)」にも腹が立つ。

その根っこにある記憶をたどってみた。

すると、二つの出来事が出てきた。

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一つ目は、4歳の頃。

幼稚園の先生に、

「明日は落ち葉を持ってきてね」

と言われた。

私は「落ち葉」が何か知らなかった。

忘れないように、帰りのバスの中でも

「オチバ、オチバ」

と唱えながら帰った。

家に帰り、母に伝えた。

母は昼寝をしていた。

「家の前の木の葉っぱをちぎって持っていき。」

私は母に言われた通り、緑の葉っぱを持って幼稚園へ行った。

でも、みんなが持ってきているのは茶色い落ち葉。

私だけ緑の葉っぱだった😰

先生に怒られた。

「落ち葉って言ったやろ。」

私は、

「お母さんがこれを持っていけって言った。」

と伝えた。

すると先生は、

「お母さんがそんなこと言うわけなかろ。」

えっ、信じてもらえない😢

私は悪くないのに。

私は言葉を飲み込んだ。

その後、友達に落ち葉を分けてもらい、工作をした。

家に帰って母に話すと、母は笑っただけだった…。

えぇ~お母さんが言うたのに😢

ただただ悲しかった。

私は悪くない。

なのに、大人は分かろうとしない😢

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もう一つの記憶。

高校1年生、初めての文化祭。

浴衣を着ることになった。

先輩から準備物として、

「半襟も必要」

と伝えられた。

私は「半襟」が何なのか知らなかった。

だから、そのまま母に伝えた。

母は、

「浴衣に半襟いるわけなかろ。」

と怒り、持たせてくれなかった。

私は思った。

「半襟」が何かは知らん。でも、先輩が『いる』って言いよったのに…😥

文化祭当日。

浴衣に着替える時、私だけ半襟がなかった😰

お辞儀をした時に胸元が見えないようにするための配慮だった。

悲しかった。

惨めだった。

恥ずかしかった。

そして、怒りが湧いた💢

「半襟」が何かも知らない子どもが、学校で「半襟が必要」と言われて、それを親に伝えた。

だったら普通は、「何か必要なんだな」と思って持たせるだろーが。

それが、配慮ある大人だ。

親は親としての権利ばかり主張して、子どもの言葉は受け取らない。

何も知らない子どもが伝えているという事実より、自分の知っていることを優先する。

私は、そこに腹が立つ💢

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私は、この二つの出来事で感じた悲しさ、惨めさ、恥ずかしさ…そして、その奥にある怒りをちゃんと感じてみた。

すると、心の奥から一つの言葉が出てきた。

「私、悪くない。」

うん、本当に悪くなかった😮‍💨

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でも、何で私は、ここまで怒りが湧くんだろう?

あれ?これ、私の完璧主義につながってる😲

私の完璧主義は、被害者意識からだと思ってた。勿論そうだ。

でも、始まりはここだった😳

「失敗してはいけない。」

間違えた時に、守ってくれる人はいない。

だから、ちゃんとしなくちゃ。

間違えてはいけない。

そうやって私は、自分を守ってきた。

そして、その生き方は、産後の私を追い込み、自分自身を苦しめることにもつながっていた😩

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でも、分かった。

私は、自分を守りたかった。

私は、私に責任を持ちたかったんだ。

怒りの根源である出来事。

それは、自分を守り、自分に責任を持つことを学ぶために、母と合意していた出来事だった。

怒りは、悪いものではなかった🥹

あの頃の私が、

「私はここにいるよ」

と教えてくれていた大切なサインだった。

怒りをちゃんと感じたからこそ、私は自分の本当の気持ちに気づくことができた。

このブログを書きながら気づきました。

私は、4歳の私と高校1年生の私に手紙を書いていたんだな…と。

50代になった今の私が、ようやく子どもの頃の私に伝えられた。

「あなたは悪くなかったよ🥹」

年齢は重ねても、子どもの頃の感情は心の中に残っている。

だからこそ、終わらせてあげることの大切さを痛感した🙂‍↕️

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私の怒りは、正義でも自己犠牲でもなかった。

他人のことに首を突っ込んでしまうのは、昔、被害者だった私が、今度は誰かを守ることで、あの頃の自分を守ろうとしていたからだった。

だから私は、加害者だけではなく、被害者にも腹が立った。

「どうして我慢するの?」

「どうして自分を守らないの?」

それは相手に向けているようで、本当は昔の私自身に向けていた怒りだった。

あの時、守ってほしかった私。

信じてほしかった私。

分かってほしかった私。

その私を、今の私が守りに行っていたんだ。

怒りは、私を苦しめるものではなかった。

あの頃の私が、ずっと私を守ろうとしてくれていた。

それは、私が生きるために必要だった力だった。

だからこれからは、その力を、自分を追い立てるためではなく、自分を大切にするために使っていきたいと思った😊


そして、もう一つ思ったことがあります。

「私、悪くない。」 「自己犠牲という偽りの優しさ。」 そして今回の 「私の怒りは、正義?自己犠牲?」

気づけば、3つのブログがつながっていました。

これからも、私はきっと怒る。 でも、何で怒っているのかを自分に聞いて、怒っている自分を認める。

そうすると、少しずつ振り幅が小さくなっていく。 そして、鎮火も早くなっていく。

そんなふうになっていけば、それでいいと思っています😊


【これまでのブログ】

・「私、悪くない。」

・「自己犠牲という偽りの優しさ」


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他人の理不尽に怒りが止まらない理由|正義感や自己犠牲ではなく「自分を守るため」だった