2025.01.23 お母さんはお釈迦さま?毒親?(前編)
「あ!お母さんの命日だった、今日〜!」
もう日付が変わろうとしている時刻にカレンダーを見ていた私は、そう小さく叫んだ。
20年前の今日、この時刻、救急病院の小部屋で横たわる母に話しかけていた。すでに心肺停止している母に。
私41歳、母75歳の1月20日。
急救搬送はされたけれど、実はすでに母は自宅でとっとと旅立っていた。大好きな長風呂の最中に頭の血管がどうかなったんだろう、という医師の見立てだが真相は不明。
だからかな?車で1時間半の病院で待っていたのは、ご遺体らしくなくポカポカ温かい母だった。
そういえば、母は「ママね長患いをしたくないんだ〜子供に迷惑をかけるのは嫌だわ」とよく言っていたので、まぁ!みごとな有言実行のラストだ。
しかし狼狽えたのは残された私達の方だ。心の準備ができてない。
特に父は泣いてばかり。
昭和6年生まれの男が妻に先立たれたらこうなるのかと、私は情けなさを通り越してイラついたこともあった。なぜなら、父という人間はどこまでも果てしなく自己中で、お酒、賭け事、内弁慶、おまけにマザコン。そのワガママぶりに母はさんざん振り回されてきたのだ。
そしてそれを41年間見て来た娘としては、泣き顔の父を冷えた眼差しで見下ろしたくもなる。
兄、私、弟、そして父母、この5人家族の中で一番手のかかる人、それが父だった。
ご機嫌が悪くなると面倒くさいので、4人は先回りして状況を整えざるを得ない。父の気分が上がるような話題を選んだりして、お殿様扱いだ。だから私達子供は反抗らしい反抗もしてこなかった。でもな〜子供にあやされている父親ってどうよ。まるで赤ん坊だ。笑える〜!
母の葬儀の喪主であるはずが、この時もいろいろ赤ちゃんだった。会場に向かう前、棺桶の母に向かって父が泣いていた。しかもわんわんと声をあげて。
鼻をすすりながら「お釈迦さまみたいな女房だった〜」と。
「だったらもう少し大事にしてあげたら良かったんじゃない?!」私の声はなだめるようなゆっくりな口調で、でもその芯には蔑視を込めて、そしてなぜか独り言みたいに宙を向いて言い放った。
そんなお別れの仕方だったこともあり、私の中では
「母=お釈迦さま」
と固定されてしまったようだ。
私が子育てに奮闘し始めた時期だからだろうか。母を女性として、というよりは、母親として評価することが増えていった。だからこそ死んでからどんどん美化されたのかもしれない。
「お母さんは眠くても子供のために台所に立っていた」とか「声を荒げたこともない」「天然のとぼけた姿で場を和ませてくれた」とか….…自分が母として妻として至らないなぁ〜と自責の念に囚われる時、そこには母と自分との比較が伴っていた。
自己犠牲ほどこの世に尊いものはない
こんな私の価値基準はここで完成したのだろう。
時は流れて、20年。おやおや?なんか変だぞ!
「あの時、なぜお母さんはこんな言葉を?」
「どうして助けてくれなかったの?」
「仕方ない!を私に強制したわね!」
と、母に対する疑念、恨み節が湧き出て来たのだ。
私自身が親業、妻業の卒業目前になり、やっと自分の内面を腰を据えて見つめたことにより
「母=お釈迦さま」がベリベリと崩れてきちゃった〜!
キャー!である。
文太ママサロンメンバーならもうお察しだろう。
そうです。
銀紙うんこちゃんの登場です!
後編につづく