2025.01.21 愛の代替品
うちの両親はわが子に「与える」ことに対してもの凄くケチだった。
情緒的な面でも物質的な面でもケチを貫いていた。愛情をかけることと甘やかすことの区別がついていなかったのだと思う。
両親にとってしつけは子供のためというより世間に対して親としての評価をあげるための手段でもあった。
「親に恥をかかせるなよ」とか「お前たちが外でちゃんとしないと親が笑われるんだ」とか常々言われていた。
父は子供に対して毎度ケチをつけてきた、母は自分の都合で父側についたり、子供側についたりしていた。
親の矛盾に対する反発心が強かった私はとくに親からしばかれていた。
寂しさ、理解してもらえない悲しみ・・・。安心感なんてほぼなかった。
愛情?それってなんですか? 大人になってからも「愛」がなんなのか実感としてわからなかった。
そんな状況でもこどもは無意識に愛を求めるものだ。
子どものつぐみちゃんは物質で愛を得ようとしていたと思う。
けれども・・・ わが両親は筋金入りのケチであった。
小学校入学前、姉と同じように学習机を買ってもらえると思っていたが、
父は知り合いの会社事務所がいらなくなったネズミ色の事務机とこれまたネズミ色の事務椅子をもらい私にあてがった。
新しい自分用の机に期待していた6歳の私は悲しさと悔しさと怒りでいっぱいだった。
姉はピカピカの机と牛皮のランドセルだったのに・・・。
親にとって私はこの程度の存在なんだ・・・。ひどく傷ついたが悲しみとして表現することは私のプライドが許さなかった。
母は「だってお父さんが・・・」←母の常套句
この時に母にめちゃめちゃ交渉して中学生になった時に新しい机を買ってもらう約束をとりつけた。
(2歳下の妹は入学時期を迎えると新しい机を買ってもらっていたことも私のむっきー!ポイント)
いよいよ中学生になり、スルーしようとする母を捕まえ、晴れて学習机をゲットした。
「勝った!!!」それだけである。本来の目的である「親の愛」などどこかに飛んで行って「勝ち負けの攻防」
になっていた。
私の原家族では成長の節目節目にこんなエピソードが目白押し。進学、成人式の晴れ着、結婚、出産
今でも思い出すとむかつくのが、出産準備の時。出産予定の産院は出産後に着用する浴衣タイプの寝巻を指定していた。
母が「あるわよ~♪」と出してきたのは闘病の末亡くなった叔母が入院時に使っていた形見分けの浴衣だった。
苦しみの末に亡くなった叔母が闘病時に着ていた浴衣をめでたい初出産で着ろと???むっきーーー!
おなかの中の赤ちゃんまで軽んじられたように感じたのだ。
自分で買えばいいでしょう?とお思いでしょう。わかります。でもそこはとりあえずそこは置いといてください。
これは愛情を物質で得ようとした若きつぐみの話です。
こんな感じで「~してくれない」親に対してあの手この手で交渉して「勝つ」を繰り返していた。
満たされるわけがない。
この歳になり、癒しをくりかえしてふと思う。
情緒ケチの両親が物質面でケチでなかったら、机も晴れ着も嫁入り道具も浴衣もサクサク提供してくれていたら。
私の交渉力は磨かれなかったし、何よりも「自分が本当に欲しかったモノ、コト」に気が付かなかったと思う。
そしてきっと物を買っては虚しい。を繰り返したり、
我が子に対しても物質で愛を表現しようとしていたと思う。我が子に対してやらかさないように。その部分は
今も注意しながら生きている。(なんせ実体験は「愛を物で埋める」しかないので~💦)
やはり今の私になるにはあの両親が必要だったのだ。わかる。わかる。理性では受け入れる。
でもまだ小さいつぐみがそこにとどまっている。
自分という存在が親の喜びであって欲しかった。
小さいつぐみの声がまだ聞こえる
これまでもセラピストとをめざしてからも内観をつづけ癒しているつもりではあるが、
自分のこととなると癒しどころが砂粒のようにあり、どこから手をつけて良いかわからない。
ひとりでは手に余るとき、途方に暮れるときは他者の力を借りよう。それは甘えでなく知恵。
そのうち他のセラピストさんの門を叩こうと思う。500ポイントを使いたいし ( ´艸`)